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大阪地方裁判所 昭和37年(わ)5046号 判決

主文

被告人に対し刑を免除する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は昭和三七年一〇月二〇日午後九時三〇分頃、大阪市南区日本橋筋二丁目三三番地路上を通行中、同路上において酒に酔つた長尾哲行(当二五才)が北口悦子の手をつかみ抱きついたり等して無理に接吻しようとする等の暴行を加え、北口がそれを泣いて拒んでいるのを目撃し、「やめておけ」といつたのに対し、長尾が「よけいなことをいうな」というなり蹴つてきたので、北口の身体及び自由を防衛するためには口で止めるだけでは不十分であると考え、その場にあつた厚板(昭和三八年押第一八六号の2がこれであると認定することはできないが、長さと巾とは右押収物件と同程度、即ち長さ約七三糎、巾約一二糎で、厚さは、少くとも約二糎あるもの)を手にし、同女の手を掴んでいた長尾の右腕を殴打しようとしたところ、同人が左手でそれを払いのけたはずみに右厚板が地上に落ち、更に同人が被告人に対しつかみかかる蹴る等の暴行を加えてきたので、後退しながらそれを避けていたが、思わぬ攻撃に会つて狼狽興奮し、再び右厚板を手にして、咄嗟にこの上は長尾の暴行に対し自己および北口の身体及び自由を防衛するためには長尾に右厚板で暴行を加えてその攻撃を排除する外ないと決意し、当時の状況からすれば、同人の攻撃を阻止するためには右厚板を振り回して暴行を加えるまでの必要がなかつたのにかかわらず、防衛の程度をこえ、右厚板を両手に持つて左右に振り回し、同人の頭部等を数回殴打し、よつて同人に対し前頭部左側打撲傷等の傷害を与え、同人をして翌二一日午後四時三五分同市北区浮田町六番地行岡病院において、右傷害に基づく頭腔内血腫、脳圧迫による脳機能障碍により死亡するに至らしめたものである。

(証拠の標目)≪省略≫

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人には暴行について故意がなく、仮に故意が認められるとしても死の結果との間には因果関係がなく、あるいは被告人の本件所為は正当防衛である旨主張するので、これらの主張につき順次判断する。

一、暴行の故意について

第二回公判調書中証人田岡章雄、同杉武久の各供述部分および被告人の当公判廷における供述によれば、被告人の持つた判示厚板が長尾哲行の身体に当つたのは、最初北口悦子を逃れさそうと同女をつかんでいた長尾の右腕を殴打しようとして同人の左手に当つたものと、長尾が被告人に対しつかみかかる蹴る等の暴行を加えて来た時、これを防ぐために右厚板を振り回したのが同人に数回当つたものとであることを認めることができる。最初長尾の左手に当つたものは、被告人のその所為が防衛行為と評価されるかどうかは別論として、長尾に対して打撃を与え、同人がひるむ隙に北口悦子を逃れさそうとして有形力を行使したのであるから、被告人がその際暴行の故意を有していたことは明白である。次いで長尾が被告人に対し暴行を加えてきたとき振り回した右厚板が長尾の頭部等に当つた所為については、被告人は厚板を振り回すことにより長尾の攻撃を排除しようとしたのであり、目の前に長尾が居るのであるから、厚板を振り回せばそれが長尾に当るであろうことは被告人において当然予測しえたところであり、一度だけでなく数回長尾の身体に当つていることから考えると暴行の確定的故意を有していたものと解するのが相当である。被告人が後退しながら厚板を振り回していたことは暴行の故意を認定するについて妨げとはならず、それは防衛行為と評価されるか否かにつき意味をもつてくるのにすぎないのである。即ち被告人の右所為は、人がいないと思つて厚板を振り回していたところ、偶然それが人に当り傷害を与えた場合と本質的に異り、被告人は長尾の暴行に対し自らも暴行を加えることによりこれを排除しようとしたものであるから、弁護人の暴行の故意がないとの主張は採用できない。

二、因果関係について

被告人の暴行と長尾の死の結果との間に因果関係がないとの弁論人の主張は松倉豊治作成の鑑定書に「例えば本人が始め加害者の手拳等にて左眼部を殴打され次いで地上に転倒し、地面乃至地上の何らかの鈍体に対して激突せしめられる等の事により生じたものとするのを適当とする」との記載があり、目撃者の証言によると被告人に頭部等を殴打された際長尾哲行はくずれるように倒れたので、それを根拠にして同人の前頭部左側の打撲傷はこの時生じたものではなく、その後長尾が地下鉄難波駅より乗車して梅田駅に至つた際、酩酊していたため、たまたま工事中の同駅の工事場ででも転倒し頭部を強打して生じたものと推量されるというのである。しかしながら、右鑑定書の記載及び証人松倉豊治の当公判廷における証言によれば、被害者の頭部損傷は本件犯行に使用された如き厚板(なお昭和三八年押一八六号の2の木片との関係は上記の通りである。)でも、これで以て頭部を殴打すれば十分生起しうることを認めることができ、他に右頭部損傷を惹起した原因の認められない本件においては因果関係の証明に欠けるところはない。何処か梅田駅の工事場ででも転倒し頭部を強打しそのため長尾の頭部損傷が生じたものであるとの主張は、単なる推測にすぎず、これを以て合理的な疑いをさしはさむ余地が生じたとはいえない。したがつて因果関係がないという弁護人の主張も採用できない。

三、正当防衛について

まず急迫不正な侵害があつたか否かについて考えてみるのに、北口悦子の検察官に対する供述調書、第二回公判調書中証人田岡章雄、同杉武久の各供述部分および被告人の当公判廷における供述によれば、長尾哲行は酔余北口悦子に対し、上記道路上でかなりの時間にわたつて、しつこく手をつかんだり抱きついたりキツスを要求したり、あるいは板塀に押しつけたりする等の暴行を加えており、これに対し北口は泣いて拒んでいたこと、その附近には一〇人近くの人だかりもできており、そのうちの二人連れの女性が「あの人今のうちに助けてあげんとあかんわ」といい合つていたほどであつて、これを見た被告人は所謂ぐれん隊の類が婦女子に乱暴しているものと考えたこと、そこで被告人は「やめておけ」と止めに入つたところ長尾が「よけいなことをいうな」と蹴つてきたので、口先だけで止めるのでは不十分であると考えて前示の如き厚板を手にしたものであること、もとより長尾は善良な市民で毛頭ぐれん隊などに関係のあるものではないけれども、北口悦子とは従来数回映画を一緒に見たことのある程度の交際をしていただけで、婚約者でもなければ相思の仲といえる間柄でもなかつたことを認めることができ、これによつてみればこの時の北口に対する長尾の行動は急迫不正の侵害であつたと思料される。そして前記の如く被告人が北口を逃がすべく長尾の右腕を殴打しようとしたところそれがこれを払いのけようとした同人の左手に当り同人が憤激して被告人に対しつかみかかる蹴る等の暴行を加えてきたのであるが、長尾は松倉豊治の鑑定書によると身長一八〇糎、体重六五キロもある体格の秀れた男性であり、かつてバレーボールの選手であつたことも考え合せると、酔つていたとはいえ、被告人に対する右暴行も急迫していたものと思料され、又被告人に対し右の如き暴行を加えはじめた時も長尾は北口の手を掴んでいたものと認められるので北口に対する侵害もいまだ終了していたとはいえない。なお人だかりがしていたが止めに入つたのは被告人一人にすぎなかつたことも恋人の間のざれごとと考えて放任したのではなく、かかわり合いになりたくないという気持がそうさせたものと認めるのが相当であつてこれを以て北口に対する侵害が急迫なものでなかつたとはいえない。要するに最初北口に対する急迫不正な侵害が存在し、次いで被告人が止めに入つたため急迫不正な侵害が被告人に対しても向けられることになつたものと考えられる。

次いで被告人の所為が防衛行為であるかどうか考えてみるのに、被告人は偶々そこを通りかかつて長尾が北口に悪ふざけしているのを目撃し、北口を逃がしてやろうと警察に通報すべく電話を探したが見当らず、ぐずぐずしていると北口が何をされるかもしれないと恐れて、自ら止めに入ろうと決意したのであり、まず最初口で「やめておけ」といつたが、長尾がそれに対し被告人に蹴りかかつてきたので、口先だけでは不十分であると考え、目についた上記厚板を手にして北口をつかんでいる長尾の右手を殴打しようとし、それが偶々払いのけようとした同人の左手に当つたものであつて、これが北口の身体及び自由を守るためになされた防衛行為であることは多言を要しない。次いで長尾が憤激して被告人に対しつかみかかる蹴る等の暴行を加えてきたため、被告人は、今度は自己の身の危険をも感じ再び右厚板を手にしてそれを左右に振り回し長尾の攻撃を排除しようとしたが、この所為も長尾の攻撃は素手であるとはいえ相当強烈であり、被告人は後退しながら厚板を左右に振り回していたにすぎず、自ら積極的に長尾に対し攻撃を加えようとした事情は認められないので、やはり自己および北口の身体及び自由を守るためになされた防衛行為であると解するのが相当である。なお、検察官は、被告人が被害者の蹴つてくるのを待ち構えて、上記押収物件を高く振り上げて被害者の頭部を強打した旨主張するけれども、この点に関する被告人の供述(公判廷及び捜査官の取調)、即ち「被害者が蹴つたりつかみかかつたりして来たので、後退しながら上記厚板を左右に一〇回位振り廻して抵抗したところが、そのうち、五、六回或は数回が被害者の身体のどこかに当つた」旨の供述は、上記公判調書中の田岡、杉両証人の供述記載とも矛盾せず、前記鑑定書によつて認められる被害者の受傷とも符合して信用性が高く、他にこれを覆すような証拠もなく、検察官主張の右事実は到底これを認めることができない。

しかしながら被告人の所為のうち最初の長尾の左手を一回殴打した暴行で事が済んでおれば、これを正当防衛として是認できるのであるが、その後も再び厚板を手にし酒に酔つて素手で攻撃してくる被害者に対して左右に振り回し、長尾の頭部等を数回殴打した暴行をも合せ考えると、その厚板は前示の如くかなり大きなもので、重量もあると認められ、これを振り回し頭部等に当るときは相当程度の傷害を相手に与えることが十分予測され、事実長尾の受けた損傷中最も大きなものは頭骨の骨折をも伴うほどの傷害であつて、このため同人は翌日脳機能障碍により死亡しているのである。又、もとより法は人に怯懦を要求するものではないが、本件の場合被告人が逃げようと思えば逃げるのにさほどの困難はなかつたと思われる。これらの事情を全体としてみれば、被告人の所為はやむことをえざるに出でたものということはできず、防衛に必要な相当な程度を逸脱したものといわなければならない。したがつて弁護人の正当防衛の主張もこれを採用することができない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇五条一項に該当し、過剰防衛行為であるところ、その刑につき考えてみるのに、被告人は長尾哲行が北口悦子に前示の如き悪ふざけをしているのに通り合わせ、他の目撃者がかかわり合いになることを恐れて終始傍観していたのに反し、宗教を信仰して、日々善行を積むことを信条とし、善いと知りつつそれをなさないことは悪をなすことと同様であるとの考えから、長尾の北口に対する暴行を止めに入つたところ、不幸にして本件犯行が発生したのであり、以上の情状、ことにその動機において被告人を強く非難すべき理由に乏しく、尚被告人の現在までの生活歴を顧みても、昭和三五年五月一九日に大阪簡易裁判所で、業務上過失傷害罪により罰金五、〇〇〇円に処せられたことを除いては、善良な一市民としての半生を恙なく過してきたものと認められるので、同法三六条二項によりその刑を免除するのを相当と認め、刑事訴訟法三三四条に則り被告人に対し刑の免除の言渡しをする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉益清 裁判官 石松竹雄 喜多村治雄)

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